2014年09月17日

奥久慈にて 漆を知る

奥久慈は国産漆の産地のひとつです。

安価な中国産漆に国内市場を奪われ、国産漆は危機に瀕しています。(といっても中国産漆の価格も高騰しているそうですが・・・)

NPO法人壱木呂の会は2009年から漆の木を植え育てる活動をしています。自然村は9月14日、壱木呂の会が主催するクロメ会に1日参加しました。
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組合長さんのお話を聞く機会に恵まれて、実際に漆畑に立ってどんな条件の所がよいのか、生育の早さなどいろいろなことを知って漆が身近に感じられました。
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漆器は高価なもの、とても買えない、正月など特別な行事に使う非日常的なもの、普段の生活にはとてもとても扱いが難しい。いいと思うけど買えないわ・・と眺める対象。
そんな思い込が一般的かもしれません。私たちもそうでした。
でも、ひとつ手に入れて使ってみたら漆器のある食卓に潤いが感じられるんです。違うんですね〜

プラスティック、ポリエチレン、ウレタンそれらと同列の単なる天然塗料漆ではなく、
漆の里山を育てる人、木地の木を育てる人、木地を削る人、漆器を作る人、生活の中で使う人、そのつながりの輪によって守られてきたものそれが漆。(壱木呂の会のパンフレット参照)
漆はJAPANとよばれるそうです。

今回のクロメ会に参加して知りました。
日本の漆の文化はなんと縄文時代には完成されていたというのです。

自然村のある練馬にも近い東村山。多摩丘陵の端に縄文時代の下宅部(しもやけべ)遺跡があるそうです。(初めて知った目
川の中に打ち込まれた杭に漆の木が栗の木に次いで多く発見されたのです。(大がかりな土木工事がなされていた)そして杭には漆掻きをした傷跡が残っていました。
遺跡からは漆塗り土器や容器、漆液を溜めた木の器、漆塗櫛などが出土しています。杭の年輪から10年位の漆の木が使われていたことが分かっています。漆は自然では育ちにくいことから10年を見通した計画的な栽培が行われていたと考えられるそうです。
季節に対応した食と、食と結びついた文化、そして不断の技術の継承と長期に渡る計画性。
現代に生きる私たちが学ぶべきことが縄文時代にあるな〜と感じながら、東村山ふるさと歴史館学芸員さんと国立歴史民俗博物館准教授工藤雄一郎氏の講義を受けました。
 
 漆畑で縄文の漆掻きの体験をしました。
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縄文時代の杭に使われたと同じ位の太さの漆の木に黒曜石で傷をつけます。
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ぐるっと1周する掻き殺しで漆を採取します。傷から白い樹液が滲んできます。
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掻いた後、やはり縄文人がしていただろう石の斧で木を切り倒しました。
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漆の中は黄色でした。漆染でとても美しい黄色に染まるのはこの色がでるのだと思いました。
縄文人も美しく染めた衣を身にまとっていたかもしれないと想像しました。

今日はこれまで。また、つづきます・・・。




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